2009/05/07

手話の辞書

http://shuwa.weblio.jp/

辞書にもいろいろあるが、この辞書にはびっくり。 手話の辞書である。 インターネットならではの辞書だ。 ちなみに、類語もいい。

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2009/03/12

賢い人と賢いと思っている人

賢い人は、分かるまで何回でも同じ話を聞く。そして分かったら本当に分かっている。

賢いと思っている人は、一回聞いただけで分かったと思い込んでいる。そして、分かっていない。

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2009/01/22

面白いなあ、言葉って

『子どもは、言葉を通して、感情、論理、意味を伝えてくる。私たちは、子どもの言葉から、その三つのうちの何を伝えたいと考えているのかを理解する必要がある。理解した上で、対応するのである。そのためのレッスンをすべきである』

と書いたが、何も子どもに限定する必要はない。人間はでいいのである。

この二三日、私はこの三つの要素のうち、感情の部分が非常に大きく動いているのを自分で感じている。感情の要素は、プラスの感情とマイナスの感情の二種類がある。いまの私は、時々猛烈にプラスの感情が出てくるのではあるが、マイナスの感情が支配することが多い。

こういう時は、黙るか発散するかである。で、今は黙っている。もちろん、こうしてブログに書いているぐらいだから発散しているのだとも言えるが、その核になる部分は、自分でも触れていない。

よくわからないのだが、黙ることでこの感情を昇華する論理と意味が生まれてくるような気がしている。

過去にも同じような経験をしたことが何度かある。その時も私は黙っていた。誰にというのではなく、自分のことばが三つの要素をきちんと充実させるのを待って黙っているということだ。

経験的に言えば、この沈黙の後、大きな変化が来ることが多い。それは何なのか自分でも今はよくわからない。

ただ、感じるのは言葉というのは「感情、論理、意味」の三つとして現れる前に、何者かがもっと根源のところにあるのだろうなあという思いと、現れた言葉がその何者かを突き詰めようとして、もう一度自らを解体し、何者かになるという繰り返しをしながら存在するのだろうなあと言う思いである。

面白いなあ、言葉って。

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2008/07/08

「伝える極意」三回目出演

今日は、「伝える極意」三回目出演の放映があった。番組自体は七回目。今回のテーマは「話し合い」だ。ほんの数週間前の収録だったが、テレビを通してみる子どもたちを懐かしく思った。

            ◆

この伝える極意という番組は、番組の構成としてテーマに即した極意を三つ提示することになっている。「話し合いの極意はなんですか?」と問われたら、みなさんならどう説明するであろうか。

通常この極意は技術にまとめることが多いのだが、私は今回はこれをやめた。何のために話し合うのかということを中心に、話し合いを考えていくことが大事だと判断したからである。

            ◆

話し合いは、バズセッション、討論、討議とさまざまなものがある。もちろん、事前にディレクターさんと打ち合わせをして、この方向で行こうというものは決めてある。

しかし、相手は初対面の子どもである。思った通りに行かないというのが普通だろう。だから、授業案も番組案も作ってあるが、多くは現場判断である。

収録は一泊二日であったので、私は初日にクラスの様子を確認してどのように授業を焦点化するかに最大の力を注いだ。そして、授業案を事前のものとは別に二つ作った。そしてそのうちの一つが採用された。

            ◆

話し合いは、様々な価値観や体験があるほうが豊かになる。しかし、それだと話し合いがバラバラになることもある。これをコントロールするのが、話し合いの目的であり、司会者である。

話し合いの目的について、学級活動に関わって授業を作ろうかとも思った。しかし、学級のルールについて私が入ってしまうと、収録が終わってからの学級経営が面倒くさいことになるかもしれないので、ここに触れないようにしなければと思った。

そうだとすれば、どこかにフィクションの世界を設定して、フィクションの世界をコントロールするための話し合いという場面設定を考えてみた。

司会は、学級を見ていて彼が出てくるであろうと判断していたのだが、その通りになった。司会が出ないときには、私がやるつもりでいたが、
『私がやる? それとも誰かがやる?』
と聞いたところ、彼が僕がやりますと言ってくれたので、私は
『じゃあ、3分間ね。私は下がってみていますから』
と下がっていた。番組ではキッチンタイマーが鳴っているのが映っていたが、そういう事情であった。

            ◆

話し合いは、民主主義の社会を選択している私たちには、非常に大切な活動である。多数決で世の中を決めるのが民主主義ではない。話し合いで利害や条件を調整して、今よりも少し良い社会を作る。その権利の主体が民にあることを定めているのが民主主義であると私は理解している。

社会は、居心地の良い人と悪い人がいて、良い人は悪い人がいないかちょっと気を使う。悪い人はちょっと勇気を出して、居心地が悪いことを伝える。

もちろんさらに、話すのが得意な人もいれば苦手な人もいる。得意な人は一歩下がって苦手な人がいないかを確認してみる。苦手な人は勇気を出して一歩前に出て話してみる。そうして、今よりも少し良い社会を作ろうとする営みを続けることが大事なんだと思う。

その経験を学校で、少しずつでもできればいいなと思っている。

            ◆

さ、次回の収録は何だf(^^;。
あと、二回収録がある予定です。

あ、それからこの回の再放送は、7/15(木)の10:00から10:15でNHK教育テレビであります。

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2008/03/20

人生で一年間だけ、人は

さて、今日は何曜日だったろうか。
なんだかよくわからなくなってきている。
日にちは理解している。東京の中学校は今日が卒業式だろう。

あちらこちらの学校でドラマがあるんだろうなあと思う。
卒業式は、なんだかんだいって中学校が一番印象に残るのではないかなと思う。
ま、私はと限定しておくが。

            ◆

まあ、担任も大変だ。身だしなみを確認するとかなんとかというだけでもない。それまでに事務の仕事をものすごい勢いで終わらせて、進路の最後の確認もし、教室の美化やら思いで作りやら、卒業アルバムのサインやら。私は卒業証書を書いたり、式次第を書いたこともあった。三年生の担任だったのにf(^^;。

卒業式の式次第では、ここから先は担任は泣いてもいいという場所があって、そこまでは必死であった。呼名は正しく読むように何回も練習してはいるものの、本番は別もの。別であるが本人にとっては晴れの舞台。なんとかきれいに名前を呼んであげたいと練習である。ま、そんなことは子どもたちにはわからないだろうが。

数年前までは、卒業式の後少しは余韻に浸ることができた。が、今は無理。すぐに新年度の子どもたちを迎える仕事が待っている。せめて、三日間のリフレッシュの時間が欲しいなあと思っていた。一年間を一日として、三日間。

(子どもたちのことを静かに振り返る時間があってもいいじゃないか。自分と仲間で指導してきた三年間を振り返り、新しい子どもたちに新たなヴァージョンアップした指導をするための静かな戦士の休息があってもいいじゃないか)

これは贅沢なのかねえ。

            ◆

私は、研究室で今年度中に出す学術書の最終校正をし続けている。少しでも良くしようとにらめっこである。時々窓ガラスをたたく音に目を休める。外は久しぶりに大雨。花粉が飛ばないので気持ちがよい。

明日残りをやればスケジュール通りになるはずである。あ、明日は春分の日か。いかんなあ、京都の春を楽しんでいないなあ。奥さんすみません。

            ◆

このごろ家に帰ると娘は一人遊びをしている。お座りをして音の鳴るおもちゃを振り回し、歯固めのおもちゃを齧り遊んでいる。

そこに、私が帰る。すると娘は振り向いて、両手をばたばた振り回して喜ぶ。ひもを引っ張ると手が動くおもちゃのように思い切りばたばたである。時には、それでバランスが崩れて後ろにひっくり返るぐらい喜ぶ。

素直に、うれしい。

言葉をまだ持たない娘は、感情を行動に移すだけだ。人生で一年間だけ、人は赤ちゃんでいられる。言葉を持たず、歩くこともせず、赤ちゃんでいられる。

(おい、おまいさんの頭の中では何が起きているのかねえ。ゆっくりと赤ちゃんの時間を過ごすんだよ。一生に一年間しかないんだからね)

なんて思いながら、うれしそうに抱っこする私である。

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2008/01/06

父は長嶋茂雄さんと同じ年

いつの頃からか、父親が面白くなった。
いつもむくれている父親のイメージであったが、私が高校生ぐらいになった時に父が、父ではなく男の顔を見せるようになった。というか、私が感じる事が出来るようになったのかもしれない。

しかし、最近の父親の暴走は凄い。

            ◆

父の語録である。

1)Aはいない。

父と私と弟は、声が同じである。電話では、間違えられる。そこで、電話の時には最初に名前を名乗る。私なら、
『おさむ。おさむです』
のようにである。

弟が家に電話をかけたときのこと。父が出た。

弟「A。Aです」
父「A? Aはうちにはいない」
弟「え? だからA。A!」
父「だから、Aはいないと言っているだろ!!」

と言って電話を切ってしまった。それも二回も。
本人が電話をしているんだから、家にいるわけないじゃん。


2)祇園にて

祇園の辺りを車で流していた。
そしたら、一足早い成人式の準備なのか、看板が出ており、その辺りに晴れ着の娘さんたちが歩いていた。

母「成人式かね?」
父「ん? 西部劇?」

どうして祇園で西部劇なのか分からない。

3)オレも厄年だ

弟は、今年大厄である。三十三間堂に行った時に、弓付きの破魔矢が売っていたので、厄払いにと私が弟に買ってあげた。すると、父が、

父「オレも今年厄年だぞ」
私「え? そんな年まで厄年なんてあったっけ?」
父「あるある。オレがそうだ」
弟「?」
私「あ、もしかして年男じゃないの?」
父「それだ、それ」

            ◆

次に会う時も、語録を期待している私である。
ちなみに、父は長嶋茂雄さんと同じ年である。

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2007/11/20

【結論】

娘を抱えて、私は考え込んだ。
(目に入れるっていったって、いったいどこをどうやって入れれば良いんだ?)

            ◆

入れやすいのは、指である。これなら入れることは可能である。しかし、これは娘を入れたと言うよりは娘の指を入れたという方が正しく、かわいい子を目の中に入れても痛くないというのとは、かなり違うと思えた。

それなら、足の指から入れるか。足からなら全身を目で受け止めるとういイメージとしても「あり」である。幸いにして娘はまだまだ軽い。十分に持ち上げることが出来る。しかし、持ち上げると乳児特有の原始歩行の名残か、はたまた嬉しいのか足をばたばたさせて、入れることは難しい。

            ◆

そこで、一番入れやすい方法を採ることにした。私は右手でお尻を抱えて左手で首を押さえるようにして娘を抱える。だから、私の目に近いのは、娘の顔、おでこである。そこで娘のおでこに狙いを定めて、私の目に入れてみることにした。

そーっと、そーっと近づける。
娘は嬉しそうに、また何があるのか分からないままきょとんとしている。
一瞬
(ん? これは児童虐待か?)
とも思った。
それは拙い。

そこで「児童虐待の防止等に関する法律」を確認する。

引用開始 ーーーーーーーーーー

(児童虐待の定義)
 第二条
 「この法律において『児童虐待』とは、保護者がその監護する児童に対し、次に掲げる行為をすることをいう。
  一 児童の身体に外傷が生じ、又はおそれのある暴行を加えること。
  ニ 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
  三 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の
    保護者としての監護を著しく怠ること。

引用終了 ーーーーーーーーーー

「児童の身体に外傷が生じ」とあるが、外傷が生じる可能性はむしろ私の方にあるわけで、大丈夫であろうと判断した。

            ◆

さあ、いよいよである。
娘のおでこを私の目の中に入れる。
そーっと、そーっと。


あれ?
痛くない。

            ◆

痛くないのである。
何回かやってみたが、痛くないのである。
当初の予測では、痛くて痛くて、やはりこの言葉は、間違っているということになるものだった。ところが、痛くない。

うーむ。

娘を良く見た。
分かった。
娘のおでこには、産毛が一定方向に向かって横に生えており、その産毛がクッションとなって目に触れていたのだ。

【結論】
「かわいい子は目に入れても痛くない」は正しい。
そして、この言葉は、私にとっては諺ではなくて、故事成語となったのである。

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2007/11/18

かわいい子は目の中に入れても

「急がば回れ」という言葉は、諺だと思っていた。しかし、これは故事成語であった。
http://gogen-allguide.com/i/isogabamaware.html

それを知ったのは、去年のことである。いくつになっても新しいことを知るというのは楽しい。それも自分が正しいと思い込んでいた内容が違っていたのに気がつくのも楽しい。

            ◆

娘が生まれたということで、多くの方から言われる。
「池田さん、かわいい子は目の中に入れても痛くないでしょ」
私は、
『いやあ、流石に入れたら痛いでしょう(^^)』
と答えていた。

            ◆

所ジョージさんの名曲「春二番」には、以下の歌詞がある。ぼーっとしていると頭の中に流れてくる曲である。

引用開始 ーーーーーーーーーー

角の小池さんちにお嫁さんが来て
挨拶回りでうちにもやってきた
「つまらないものですが受け取ってください」
「つまらないものでは受け取れません」
その日小池さんは笑っていたけど、
次の日ゴミ置き場を見て泣いていた
心の片隅に春が来て
ついでに頭の片隅がコブラツイストの弓矢固め
まして春は山に来た野にも来た

引用終了 ーーーーーーーーーー

名曲だ。
で、「つまらないものですが受け取ってください」「つまらないものでは受け取れません」が秀逸なのだが、果たして本当に「かわいい子は目に入れても痛くない」のであろうかという疑問が、この歌とともに浮かんできた。

            ◆

東海林さだおさんの『たこの丸かじり』という珠玉の名エッセイには、「キャットフードを食べる」というものがあった。グルメで名文家の東海林さんの全エネルギーを注いだ文章がある。

東海林さんがどのようにしたのか。もちろん実験したのである。

            ◆

さて、私は文章修行の身である。国語の教師でもある。諺なのか故事成語なのか、試さなければならないと、心の中の何かが叫んだのだ。

(かわいい子は、目に入れても痛くないのだろうか?)

以下、次号に続く。(をを、初めてのパターンだ)

みなさんも、実験をどうぞ。


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