2011/11/16

で、何が三つ重なる? 何が三つ重たい?

11/16

Tu_2

出張で三重県に出掛けていた。
普段さほど関わりのある所でもないので気にしていなかったのだが、三重という文字を見ていて、
(さて、何が三つ重なっているのだろう?)
(いや、三つ重たいものがあるのか?)
と興味を持った。

ちょっと調べてみると、元々三重県の県庁所在地は四日市にあって、そこに三重郡というところがあったそうな。そこから県庁所在地は津に移るのだが、その名残があってか三重という名前を県の名前にしたようだ。

で、何が三つ重なる? 何が三つ重たい?
と思って調べていたら、これは水(み)辺(へ)だという。鈴鹿川の辺りという説があるのだそうだ。ということは、重なってもいないし、重くもないということなんだな。へー。

私たちが生まれる前から社会は当たり前のような顔をして存在していて、私たちがこの世からおさらばしても存在する。だから、当たり前すぎて気にもしないことは沢山ある。この三重県という地名だって200年前にはなかったわけで、今後どうなるかもわからない。

さらに、今ある三重県という名前の由来だって、取りあえずでも知っている人は、さて、どの位いるのだろうか。私は関東の「ことばめがね」を持っているので、関西のあれこれが面白い。面倒くさいというよりは、面白い。

知るって楽しいねえ。
写真は、紀伊半島から望む太平洋の「かぎろひ」。
写真左側に、関空が微かに見えます。

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2011/04/19

その事象はもう一つの顔を見せる

4/19

Sakura

桜吹雪。

美しい日本語をあげよと言われれば、この言葉を挙げるだろう。桜と吹雪は季節の違う言葉である。この二つの言葉が複合語となって一つの言葉になっている。本来出合うことのない言葉が出合っている。別の言い方をすれば、単語そのものが俳句で言う所の「二物衝突」をしているのだ。つまり、単語そのものが俳句ということがいえるかもしれない。

この強い風を伴った雨で、京都のソメイヨシノはどんどん散ってしまった。

「サヨナラ」ダケガ人生ダ

井伏鱒二は「勧酒」の一節を訳したが、桜の散り際、桜吹雪の中に立っているとあれこれ思うのである。

嘗て、東京にいた時に伊豆半島に出かけたときのことである。
干物のお土産を物色していたときに、見かけない干物を見つけたビーフジャーキーの大きな感じの干物である。

ビーフジャーキーが海産物のお土産コーナーにあるというのは変である。なんであろうかと尋ねてみた。すると、それはイルカの肉の干物だと言うのだ。勿論味見をする。美味しい。

「そうなんだよねえ。可愛いんだけど、美味しいんだよね」

と店の人は言うのである。

今年の桜は、美しく見える。
それは、開花の直前にぐっと寒かったからと言われている。そうかもしれない。この、寒さとの対比が美しさを生み出しているのかもしれない。

だが、やはり震災であろう。

震災の悲しみが、この桜そのものの切なさを揺さぶっている。そして、桜の美しさを「支えて」いるように思えてならない。

一つの事象の中に、二つの相反する価値が含まれている時、そしてその表側の面の中にちらりと裏側の面が見える時、その事象はもう一つの顔を見せる。


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2010/05/21

鬼の霍乱である

5/20

鬼の霍乱である。

久し振りに、体のあちこちが悲鳴をあげている。風邪だけではない。歯が浮いている。歯が浮くというのは、歯が丈夫な人にはわからない感覚であろうが、いまこの感覚である。さらに、何かの花粉による症状や、あれやこれやである。あと一日で、何とかせねばなあと思うばかりである。

鬼の霍乱。

大辞林 第三版から引用開始 ーーーーーーーーーー

鬼の霍乱かくらん
〔「霍乱」は暑気あたりの意〕
いつも非常に健康な人が,珍しく病気にかかることのたとえ。

引用終了 ーーーーーーーーーー

とある。他の辞書では、日射病からの下痢ともある。まあ、鬼の腹下しなのかもしれないなあなんて事を思うのである。

大学のエレベータの中で、学生に声を掛けられる。

「先生、風邪ですか?」
『うむ。鬼の霍乱である』
「そうなんですか」
『そうなんですかではない。だいたいからして、君は、鬼の霍乱という言い方を理解しているのかね?』

という事で説明を始めてしまう。
(こんな体調が良くない時に何をやっているんだ)
と自分でも思うのだが、指導はその場でという事が染み付いているのだから仕方がない。

鬼の霍乱の意味と、この言葉の使い方も講じた。枯れ木も山の賑わいは、相手に言ったところで、褒め言葉にはならずむしろ貶し言葉になる。鬼の霍乱も同じようなもので、自分で言う分にはいいのだが、相手に言うと貶し言葉になると言うことを理解しなければならない。

なんてことを指導する。ああ、こんな体調の時ぐらいやめればいいのにと、改めて思う。

午後は授業も会議も無かったので、それ以外のものは全部後回しにして帰宅。まずは、体を横にする。

その後、喉など痛みが激しいため、重い腰を浮かべて病院に向かう。薬をどっちゃりと出されて、めげる。

家族にうつさないように、一人自主的に自分を隔離して寝る。
ああ、早く治らないかなあ。

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2010/04/18

つくづくアニミズムの国に住む私

絆創膏が好きな娘である。ちょっとでもぶつけたり、引っ掻いたりすると絆創膏を求めてくる。それも、ちっちゃいのが好きで、ちっちゃいのを貼れと言う。

いろいろなサイズの入っている缶の中を捜してちっちゃいのを貼る。それが無くなると大きいのを半分に切って貼る。満足な娘。

一晩経って、手を見ると絆創膏がはがれ始めている。
「はがれてきたの」
と手を見せる。
『ああ、それはもう傷が治ってきたよ、って絆創膏さんが教えてきてくれているんだよ』
と説明する。

娘は、一生懸命に貼り直そうとしている。
『ほら、もう大丈夫だよ。治ったよって教えてくれているから、くっつかないでしょ』
そのうち、娘は
「取って!」
と小さな手を出して、剥がすことを求める。剥がしてみると、ほとんど大丈夫な傷である。

つくづくアニミズムの国に住む私だなあと思う。絆創膏にまで人格を認め、そして、絆創膏が傷の治療を司る神に見立てて、娘に語っている。

キリスト教の世界では、こう言うときなんて言うのかなあと思う。
やはり
「傷が治ってきたから、神様がもう剥がしなさいって指示を出しているのよ」
ってな感じになるのだろうか。



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2009/05/07

手話の辞書

http://shuwa.weblio.jp/

辞書にもいろいろあるが、この辞書にはびっくり。 手話の辞書である。 インターネットならではの辞書だ。 ちなみに、類語もいい。

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2009/03/12

賢い人と賢いと思っている人

賢い人は、分かるまで何回でも同じ話を聞く。そして分かったら本当に分かっている。

賢いと思っている人は、一回聞いただけで分かったと思い込んでいる。そして、分かっていない。

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2009/01/22

面白いなあ、言葉って

『子どもは、言葉を通して、感情、論理、意味を伝えてくる。私たちは、子どもの言葉から、その三つのうちの何を伝えたいと考えているのかを理解する必要がある。理解した上で、対応するのである。そのためのレッスンをすべきである』

と書いたが、何も子どもに限定する必要はない。人間はでいいのである。

この二三日、私はこの三つの要素のうち、感情の部分が非常に大きく動いているのを自分で感じている。感情の要素は、プラスの感情とマイナスの感情の二種類がある。いまの私は、時々猛烈にプラスの感情が出てくるのではあるが、マイナスの感情が支配することが多い。

こういう時は、黙るか発散するかである。で、今は黙っている。もちろん、こうしてブログに書いているぐらいだから発散しているのだとも言えるが、その核になる部分は、自分でも触れていない。

よくわからないのだが、黙ることでこの感情を昇華する論理と意味が生まれてくるような気がしている。

過去にも同じような経験をしたことが何度かある。その時も私は黙っていた。誰にというのではなく、自分のことばが三つの要素をきちんと充実させるのを待って黙っているということだ。

経験的に言えば、この沈黙の後、大きな変化が来ることが多い。それは何なのか自分でも今はよくわからない。

ただ、感じるのは言葉というのは「感情、論理、意味」の三つとして現れる前に、何者かがもっと根源のところにあるのだろうなあという思いと、現れた言葉がその何者かを突き詰めようとして、もう一度自らを解体し、何者かになるという繰り返しをしながら存在するのだろうなあと言う思いである。

面白いなあ、言葉って。

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2008/07/08

「伝える極意」三回目出演

今日は、「伝える極意」三回目出演の放映があった。番組自体は七回目。今回のテーマは「話し合い」だ。ほんの数週間前の収録だったが、テレビを通してみる子どもたちを懐かしく思った。

            ◆

この伝える極意という番組は、番組の構成としてテーマに即した極意を三つ提示することになっている。「話し合いの極意はなんですか?」と問われたら、みなさんならどう説明するであろうか。

通常この極意は技術にまとめることが多いのだが、私は今回はこれをやめた。何のために話し合うのかということを中心に、話し合いを考えていくことが大事だと判断したからである。

            ◆

話し合いは、バズセッション、討論、討議とさまざまなものがある。もちろん、事前にディレクターさんと打ち合わせをして、この方向で行こうというものは決めてある。

しかし、相手は初対面の子どもである。思った通りに行かないというのが普通だろう。だから、授業案も番組案も作ってあるが、多くは現場判断である。

収録は一泊二日であったので、私は初日にクラスの様子を確認してどのように授業を焦点化するかに最大の力を注いだ。そして、授業案を事前のものとは別に二つ作った。そしてそのうちの一つが採用された。

            ◆

話し合いは、様々な価値観や体験があるほうが豊かになる。しかし、それだと話し合いがバラバラになることもある。これをコントロールするのが、話し合いの目的であり、司会者である。

話し合いの目的について、学級活動に関わって授業を作ろうかとも思った。しかし、学級のルールについて私が入ってしまうと、収録が終わってからの学級経営が面倒くさいことになるかもしれないので、ここに触れないようにしなければと思った。

そうだとすれば、どこかにフィクションの世界を設定して、フィクションの世界をコントロールするための話し合いという場面設定を考えてみた。

司会は、学級を見ていて彼が出てくるであろうと判断していたのだが、その通りになった。司会が出ないときには、私がやるつもりでいたが、
『私がやる? それとも誰かがやる?』
と聞いたところ、彼が僕がやりますと言ってくれたので、私は
『じゃあ、3分間ね。私は下がってみていますから』
と下がっていた。番組ではキッチンタイマーが鳴っているのが映っていたが、そういう事情であった。

            ◆

話し合いは、民主主義の社会を選択している私たちには、非常に大切な活動である。多数決で世の中を決めるのが民主主義ではない。話し合いで利害や条件を調整して、今よりも少し良い社会を作る。その権利の主体が民にあることを定めているのが民主主義であると私は理解している。

社会は、居心地の良い人と悪い人がいて、良い人は悪い人がいないかちょっと気を使う。悪い人はちょっと勇気を出して、居心地が悪いことを伝える。

もちろんさらに、話すのが得意な人もいれば苦手な人もいる。得意な人は一歩下がって苦手な人がいないかを確認してみる。苦手な人は勇気を出して一歩前に出て話してみる。そうして、今よりも少し良い社会を作ろうとする営みを続けることが大事なんだと思う。

その経験を学校で、少しずつでもできればいいなと思っている。

            ◆

さ、次回の収録は何だf(^^;。
あと、二回収録がある予定です。

あ、それからこの回の再放送は、7/15(木)の10:00から10:15でNHK教育テレビであります。

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2008/03/20

人生で一年間だけ、人は

さて、今日は何曜日だったろうか。
なんだかよくわからなくなってきている。
日にちは理解している。東京の中学校は今日が卒業式だろう。

あちらこちらの学校でドラマがあるんだろうなあと思う。
卒業式は、なんだかんだいって中学校が一番印象に残るのではないかなと思う。
ま、私はと限定しておくが。

            ◆

まあ、担任も大変だ。身だしなみを確認するとかなんとかというだけでもない。それまでに事務の仕事をものすごい勢いで終わらせて、進路の最後の確認もし、教室の美化やら思いで作りやら、卒業アルバムのサインやら。私は卒業証書を書いたり、式次第を書いたこともあった。三年生の担任だったのにf(^^;。

卒業式の式次第では、ここから先は担任は泣いてもいいという場所があって、そこまでは必死であった。呼名は正しく読むように何回も練習してはいるものの、本番は別もの。別であるが本人にとっては晴れの舞台。なんとかきれいに名前を呼んであげたいと練習である。ま、そんなことは子どもたちにはわからないだろうが。

数年前までは、卒業式の後少しは余韻に浸ることができた。が、今は無理。すぐに新年度の子どもたちを迎える仕事が待っている。せめて、三日間のリフレッシュの時間が欲しいなあと思っていた。一年間を一日として、三日間。

(子どもたちのことを静かに振り返る時間があってもいいじゃないか。自分と仲間で指導してきた三年間を振り返り、新しい子どもたちに新たなヴァージョンアップした指導をするための静かな戦士の休息があってもいいじゃないか)

これは贅沢なのかねえ。

            ◆

私は、研究室で今年度中に出す学術書の最終校正をし続けている。少しでも良くしようとにらめっこである。時々窓ガラスをたたく音に目を休める。外は久しぶりに大雨。花粉が飛ばないので気持ちがよい。

明日残りをやればスケジュール通りになるはずである。あ、明日は春分の日か。いかんなあ、京都の春を楽しんでいないなあ。奥さんすみません。

            ◆

このごろ家に帰ると娘は一人遊びをしている。お座りをして音の鳴るおもちゃを振り回し、歯固めのおもちゃを齧り遊んでいる。

そこに、私が帰る。すると娘は振り向いて、両手をばたばた振り回して喜ぶ。ひもを引っ張ると手が動くおもちゃのように思い切りばたばたである。時には、それでバランスが崩れて後ろにひっくり返るぐらい喜ぶ。

素直に、うれしい。

言葉をまだ持たない娘は、感情を行動に移すだけだ。人生で一年間だけ、人は赤ちゃんでいられる。言葉を持たず、歩くこともせず、赤ちゃんでいられる。

(おい、おまいさんの頭の中では何が起きているのかねえ。ゆっくりと赤ちゃんの時間を過ごすんだよ。一生に一年間しかないんだからね)

なんて思いながら、うれしそうに抱っこする私である。

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2008/01/06

父は長嶋茂雄さんと同じ年

いつの頃からか、父親が面白くなった。
いつもむくれている父親のイメージであったが、私が高校生ぐらいになった時に父が、父ではなく男の顔を見せるようになった。というか、私が感じる事が出来るようになったのかもしれない。

しかし、最近の父親の暴走は凄い。

            ◆

父の語録である。

1)Aはいない。

父と私と弟は、声が同じである。電話では、間違えられる。そこで、電話の時には最初に名前を名乗る。私なら、
『おさむ。おさむです』
のようにである。

弟が家に電話をかけたときのこと。父が出た。

弟「A。Aです」
父「A? Aはうちにはいない」
弟「え? だからA。A!」
父「だから、Aはいないと言っているだろ!!」

と言って電話を切ってしまった。それも二回も。
本人が電話をしているんだから、家にいるわけないじゃん。


2)祇園にて

祇園の辺りを車で流していた。
そしたら、一足早い成人式の準備なのか、看板が出ており、その辺りに晴れ着の娘さんたちが歩いていた。

母「成人式かね?」
父「ん? 西部劇?」

どうして祇園で西部劇なのか分からない。

3)オレも厄年だ

弟は、今年大厄である。三十三間堂に行った時に、弓付きの破魔矢が売っていたので、厄払いにと私が弟に買ってあげた。すると、父が、

父「オレも今年厄年だぞ」
私「え? そんな年まで厄年なんてあったっけ?」
父「あるある。オレがそうだ」
弟「?」
私「あ、もしかして年男じゃないの?」
父「それだ、それ」

            ◆

次に会う時も、語録を期待している私である。
ちなみに、父は長嶋茂雄さんと同じ年である。

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